子どもの頃、夏休みと言えば私たちの一大イベントで、毎日思いっきり遊んだものです。
その中で、毎年繰り返される8月6日(広島平和記念日)と8月15日(終戦記念日)は、子どもの私には、朝早くから沢山の人が集まって何しているのかな、と思ったくらいでした。
【一本の鉛筆】が誕生したのは1974年です。1945年8月6日に原子爆弾によって焦土となった広島で、復興と平和をテーマにして始まった音楽祭がきっかけだったそうです。美空ひばりは幼少期に父が徴兵された後、4人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中をかろうじて生き延び、横浜大空襲の体験を生々しく記憶されていたそうです。
戦後の夏の日ざかりに焼けたアスファルトの道を、ゴム長靴を履いて魚屋の仕入れでリアカーを引く母の姿を、美空ひばりは鮮明に覚えていたようです。
“世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同し、音楽祭への演出を快諾した美空ひばりは、課題となった書き下ろしの作品【一本の鉛筆】に取り組んだのです。
美空ひばりが8月9日に開かれた第一回広島平和音楽祭の会場で、この歌を初めて人前で発表したのです。10月1日に【一本の鉛筆】はシングル盤として発売され、B面の【八月五日の夜だった】ともども、広島市へ投下された原子爆弾によって引き起こされた未曾有の悲劇について、怒りを込めて描いた作品でした。
それから14年後の1988年。美空ひばりは再び広島平和音楽祭に出演します。その時すでに大腿骨壊死と肝臓病で、前年から入退院を繰り返していました。もう、再起は絶望的だと伝えられていた状況にも関わらず、その年の4月11日に開かれた東京ドームでの「不死鳥コンサート」を見事に成功させ、完全復活をアピールさせたのです。
それから7月29日の広島平和音楽祭の当日は、会場の楽屋に医療スタッフも待機し、点滴を打ったままずっと横になっていたそうです。
ところが、ひとたび舞台に上がり観客の前に立った瞬間に、笑顔を絶やさず【一本の鉛筆】を最後まできれいに歌い切ったのです。
翌年、6月24日、美空ひばりは52歳の若さで逝去したのでした。
「一本の鉛筆があれば……♪」
「私は あなたへの愛を書く……♪」
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