私たちの学生、特に小中学校時代は昭和でもあり、先生から「ビンタ・げんこつ」は当たり前の時代であり、今でいう『暴力』という言葉に置き換えられる風潮など一切ない、考えれば不思議な時代でした。
私は小学校に入学する前から活発であり、家で『一坪図書館』を父親が運営していたこともあり、毎日色々な書籍を読み漁り自分で言うのも何ですが、物知りで生意気な子どもでした。
そんな環境の中で育ったこともあり、小学校へ入学することを本当に楽しみにしていたのですが……。
自分が描いていた勉強などできる環境ではなく、また、1978年には日本テレビ系列で放映が開始された水谷豊主演の『熱中時代』も重なり、あまりの先生の違いに衝撃を受けたことも事実です。
特に私が嫌だった担任は男性で、よく「ビンタ・げんこつ」を受け、その度に星が出るくらい強烈でした。
また、授業中は答えられないと馬鹿にされ、クラス中の皆に失笑されるほど嫌味を言われ、それが原因かは分かりませんが私自身『赤面恐怖症やドモリ』が始まってしまったことも事実です。
その結果、担任が許せなく反抗すらできる状況でもなかったため、お正月の年賀状に〇〇〇〇の墓、という絵をかいて送り付けた有様でした。
担任自身は私のこの行為に対して理解できたかは分かりませんが、当然、対応はエスカレートしました。
この時期に始まった『赤面恐怖症やドモリ』は段々酷くなり、中学校時代には朝、両親に隠れて日本酒を飲んで登校していたほど病んでいました。
結局、その症状は20代前半までは症状が続いていたと思われます。しかし、何故か良い印象がなかった担任に対して、お墓の絵を描いて送ったことについて何時かは謝罪したいと思い、長年忘れたことはなかったのです。
さて、月日が経ち我が家の子ども達が謝罪したいと思っていた担任の子ども達と仲良くなりお付き合いが始まりました。何度かお宅まで行くことはありましたが、担任とは会うこともなく、また、子どもたちも年頃になり、それぞれ社会に飛び立ち関係はなくなりました。
現在は病気で早期退職をされたとかされないとかと噂は聞きますが、教員生活の経験を活かして地域で活躍されていることでしょう。
子どもたちが私の嫌いだった担任の子どもたちと仲良くなり付き合いを始めた時は、『運命の悪戯なのか』と衝撃を受けました。
結局、担任の先生とは再会することはありませんでした。先生自身も私が送り付けたお墓の絵を描いた年賀状の件は、何時までも引き摺っていたからこそ、私と顔を合わさないようにしていたのか、と今では思っています。
もう、お会いする機会はないと思いますが、当時の教育界における「ビンタ・げんこつ」は当たり前のように存在し『愛の鞭』とも言われていました。
私に言わせれば、ただ単に感情的に気に入らないから「ビンタ・げんこつ」をしていたとしか思えません。まさに『愛の鞭』ではなく『タダの無知』だったようです。
第26・27代連合艦隊司令長官の山本五十六は
「やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」
と部下を指導していました。戦後の教育界は何故「ビンタ・げんこつ」が当たり前だったのでしょうか……。
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