先日、ラジオ深夜便で集団就職の話が出ていました。
集団就職は戦前から行われていた制度です。特に広く知られるようになったのは、日本の高度経済成長期に盛んにおこなわれるようになったからだそうです。制度としては、農村から大都市への大規模な就職運動のことを指す場合が多いそうです。
1930年代に学卒者の集団就職が行われるようになったそうで、集団就職の最初の事例とされるのは1935年(昭和10年)3月に秋田県が行ったものだそうです。
これは前年に凶作に見舞われた東北地方の救済策として、大阪鉄工場組合大阪合金会が実施した当地の少年工の集団採用であったそうです。
その後、1939年(昭和14年)4月4日になり「就職列車」の言葉が初めて現れ、更に4月8日には史上初の「専用臨時就職列車」が秋田発上野行きとして運行されたそうです。これらの集団就職は秋田県だけではなく、東北6県の広域で企画されたものだったそうです。
その後、終戦後早い時期から集団就職は再開されており、1947年(昭和22年)2月、秋田県から群馬県への集団就職が行われた際の引率者による記録が残っているそうです。
集団就職列車の再開第1号は、1951年(昭和26年)3月29日で長野発名古屋・三重・京都・大阪方面行の「織姫星(おりひめ)号」であるそうです。
典型的な集団就職の形態としては、農家の次子以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、主要都市の工場や商店などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名です。就職先は東京が最も多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく使われた井沢八郎の『あゝ上野駅』が情景を表しているとして有名です。
現在、日本は景気が低迷し、人手不足で新卒者は引く手あまたとも言われています。過去に日本の高度経済成長を支えた若者(中卒)労働者のことを『金の卵(きんのたまご)』と言われていました。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校までであった義務教育の期間が、中学校卒業までの9年間に延長されました。この学制改革を契機に、戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生したそうです。
私が就職した当時の上司の中には、この金の卵の方々が会社を支えていた時代でもありました。
しかしながら現在は人手不足と言われながらも、中学校卒業生を雇用する企業はありません。
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